近藤大祐の作品は注射器を使った特徴的な技法で出来上がる。彼が出逢ってきた風景を情報として体の内側に取り込み、非常に計画的に構築した設計図に従って画面上に絵具を重ねた末に完成している。画面の中で自然と人工物が調和させるそのスタイルは、これまでご好評を頂いてきた。
今年は特にコロナ禍で、本来あった予定がリスケジュールを余儀なくされてしまい、彼にとっても作家として不完全燃焼の部分が現れた。その中にあって与えられた時間を活用し、今一度制作を見つめ直し、新シリーズに取り掛かった成果を今回ご覧に入れる。
LINKシリーズと題されたこれら新作では、現実と対峙する作者をフィルターとして、虚構でつくり出された街並みと人々が描かれている。
彼ら、人々はおそらくそれぞれがストーリーを持っているだろうが、ヴィヴィッドに塗られながらも温度を持ちつつ絞られた色彩で、同じ時間を過ごし交錯していながら関わることはない作者の前をただ通り過ぎる風景となっている。
記憶の断片を繋ぎ合わせるようにして、モノクロームで表現される匿名性を持たせた建造物と合わせたこの2つの要素の画面内での奇妙な同居は、分極化が進む現代社会の分断を想起させる。そしてウイルスの登場によって現実が脆く崩れ去って右往左往している我々を表現した、浮世絵的な自画像かもしれない。
GALLERY TOMO
風景はいつの時代に於いても、アートマーケットに於いても非常にポピュラーなモチーフだろう。注射器を用いて描くアーティストは、日本では木原和敏、海外ではキンバリー・ジョイ・ マロ・マグワンアが知られている。少しずつ技法としての認知が広まる中、それらの作品はリアリズムテイストに偏向しているか、人物画がメインのモチーフとなっている。その中にあって近藤は、肉眼を通して自身の内側に取り込んだ風景のイメージから、エレメントを抽出し、混色を駆使しながら“風景”を描いていく。
その仕事は、前もって準備された計画に従ってプログレッション(=数列)からスタック(=積み 重ね)させていくストイックなもので、規則性に基づいて構成される作品は無機質な建築物にも感情が宿り、自然と同化していく。人工物と自然が同質に描かれ、匿名的になっている様は、 社会に拘束された自身の他律性を突きつける。ドナルド・ジャッドや李禹煥など、コンテンポラリーアートを代表する作家達の系譜と位置付ける事が出来るだろうが、現在のところ作品はより具体的なものとなっている。
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